カテゴリー「Everyday I have the Blues (日記の項)」への投稿

21
2月

元社長Mさんのお通夜

   Posted by: Masazumi Ito   in Everyday I have the Blues (日記の項)

先々代社長のMさんのお通夜に行った。
斎場は横浜。と言っても横浜町田インターのそばで、交通の便はきわめて悪い。
17時半すぎに会社を出たが、長津田からタクシーで到着したのが、お通夜開始から30分ほど経った19時半頃。
聞くところによると、ここ2年ほど入院されていたらしい。
社長を退任してから、1年間代表権を持って会長を努められたが、表舞台に出る役目はすべて新社長に移譲され、会社へ来る日も日々減って最後退任するときはすっかり衰えた姿になっていた。
労使間でいろいろお世話になったこともあり、退任される前、最後のご挨拶に伺ったときはすっかり老人の眼になっていて、私が会長室に入っても一瞬「誰?」という顔をされていた。
ただ、遺影はバリバリの社長時代のものと思われる、かくしゃくとした写真だった。

この1ヶ月の間に、3回の葬式。こういう時でないと滅多に会えない人たちとの懐かしい再会の場であることは間違いない。
お清めの場で、Mさんの後任で昨年まで社長を務めたMI前社長や、大先輩である35年前の労組委員長Nさんらと旧交を温め、早々に退席した。

でも、もう今年の訃報は打ち止めにしてもらいたい。

岡地曙裕氏と軽く飲んだ。二人で飲むなんて、20数年ぶりじゃないかな。
かつてはよく飲んだ。いや、「よく」という表現は当らない。毎日のように飲んだ。
朝まで飲んで、彼の家でそのまま寝る。起きて飲む。あっという間に終電はなくなる。また、家で飲み続ける。そんなことを一週間も続け最後は「もうお前の顔なんか見たくないぞ!」と捨て台詞を吐いて別れるのだが、たまたまその日の夕方に新宿のレコード屋でばったり会ってしまい、その日からまた数日・・・・。なんてこともあった。二人で飲むと、音楽の話題はもちろんだが、プロレスの話、B級映画の話、下ネタ等々で止めどもない。
年月は経ち、私は江戸川区勤務、彼は江東区在住となり、下町あたりで飲む機会がなかったほうがおかしいくらいだ。


山利喜私の通勤経路の沿線まで来てもらえることになり、江東区の森下で落ちあった。
彼が事前にリサーチしていた「山利喜」に入る。私が来るだいぶ前から、店の前に並んでいてくれたようだ。
さすが行列ができる飲み屋。グルメ気分を満喫してしまった。
大正13年創業という、下町の老舗酒場である。
詳細は「山利喜」のホームページをご覧ください。近所にもう一店舗あるとは知らなかった。
我々は本館のほうにお邪魔した。でかい赤提灯にちょっと古めかしい昭和の雰囲気。
まずは生ビールでスタート。岡地氏は最初から日本酒。
最初に頼んだ刺身盛合わせは、まあこんな感じかな、という程度。
しかし、次に出てきた「やきとん」は旨い。塩で子袋、レバーとかしらはタレで。このタレが何十年も継ぎ足されてきたという秘法のタレらしく、深い味わいがある。
皿の隅に色の薄いからしが載っていて、岡地氏の「おぉ、酢味噌か」という言葉に騙され、思いっきり舐めたら死んだ。
日本酒も厳選されており、私は山形の「うきたむ」という酒を頼んだ。初めて飲む銘柄だが「なめらかでいて、切れのある軽快な味わい。香らず香る、軽いが軽すぎず」という謳い文句どおり。値段も安いし、これはちょっと要チェックだ。


山利喜の煮込みそして、なんといっても「煮込み」!朝から6時間以上煮込むというから、牛シロはもうトロトロ状態。そして味の濃厚なこと。病みつきになります。
たまごを入れてもらったが、これもしっかり味の染み込んだゆでたまご。
隣で、赤ワインを飲んでいる人がいたが、やっと意味がわかった。「煮込み」というより「ビーフシチュー」に近い感覚かもしれない。ちなみに「ガーリックトースト」なんてメニューもあり、まさしくこれで皿に残った煮込みをすくい取るということらしい。どうやら、この煮込みには「赤ワイン」もブレンドされているようだ。

この次は事前にホームページでつまみ類をチェックしてから行きたいものだ。
それにしても、岡地さん相変わらず「飲み屋グルメ」だねぇ。また下町ツアー行きましょう。

Steve Tomashefskyお宝コーナーにサインを1点追加。
ブルースマンではありません。ソウルシンガーでもありません。
プロレスラーでもありません。

デルマーク・レコード(Delmark Rcords)のスティーブ・トマシェフスキーさん、でした。

ちなみに、腰痛は治っちゃいましたね。自然治癒。つおい!

18
2月

元社長Mさん逝く

   Posted by: Masazumi Ito   in Everyday I have the Blues (日記の項)

朝一で本社のH課長より訃報の連絡。
わが社の二代前の社長Mさんが亡くなられたとのこと。昭和4年生まれなので、80歳に手が届かなかった。
今年は正月から訃報続きで嫌になる。

Mさんは昭和63年から12年間社長の座にあった。
当初はタナボタ的に就任されたらしいが、私が直にお話出来るような立場になった時は、九州男児の無骨な「社長」らしい風格になっていた。
Mさんの社長時代はバブルの絶頂期から凋落するぎりぎり手前の時代。最後はテコ入れに奔走したが今よりはマシなころだった。
私は労働組合の委員長を9年やったが、最初の3年間の相手はMさんだった。

平成10年の暮れも押し迫った頃、私と書記長のHさんが本社に呼ばれた。相手は当時のM社長とナンバー2のE常務。
切り出しにくそうに話してきた内容は「従業員の賃金カットを容認してほしい」。
こんな重要な内容を、いくら組合の代表と言えど勝手に決めていい訳はない。しかしながら回答期限は即日。
結局、様々な条件を飲んでもらうことと引き換えに3ヶ月限定で容認することとなった。
その条件の中に、経営者側の役員報酬カット率の甘さを指摘させていただいた。その時のMさんの返答は次のようなものだった。
「いくらなら認めてもらえるのか。委員長の言った額に従うよ。」眼光鋭く鬼気迫るものがあり、思わず後ずさりしそうになった。それだけ、真剣に捉えていたのだろう。
後日、同席したH書記長が言った。「社長の給料を決めた委員長なんて後にも先にもないよ」。

その事件から遡る事、8ヶ月前。
渋い金額に終わった春闘が妥結した翌日、前期の業績がほぼ出来上がった。内々に経理から情報を掴んだのだが、予想とは裏腹にそこそこの数字が残った。
頭に来た私は、社長室に直訴に行った。団交員側の勉強不足もあったが、会社側の厳しい収支状況の説明を鵜呑みにして春闘は経営者に大幅譲歩した形で終わっていたからだ。
「会社の説明と全然違うじゃないですか。これだけの数字が残せるのなら、従業員へ分配すべきじゃなかったのですか」。
半年前の一時金団体交渉にて「プラスアルファなし」の妥結をしているので、私の討ち入りはいわば「反則」である。ただ正論を突きつけなければ腹の虫は収まらなかった。
その「反則」をMさんは受け入れた。夏の賞与に一律のプラスアルファを支給することを認めたのだ。私自身はもちろんのこと、同席したH書記長も驚いた。
やはり同席していたMさんの腹心であるE常務もびっくりしたらしい。後日、E常務から聞いたのだが、「あれは委員長の持って行き方がうまかったね。社長は九州男児だから、心意気の琴線に触れると思いもかけない決断が生まれるんだよ」。
私は特に作戦を練って行ったわけもなく、思うがままに訴えただけ。Mさん引退後に他の役員から「あの時は、Mさん勝手に決めて・・」と愚痴を聞かされたが、胸を張って自分の信念を信じて決断をしたMさんの強さを見習って欲しかった。
「社長らしい社長」それがMさんだった。

Mさんは退任後、公の場に姿を現すこともなく、体調もすぐれず入退院を繰り返していたような噂も聞いた。
Mさんが去った日を境に、我社は面白いくらいに業績を落として行く。これも何かの因果なのか。

お通夜は3日後。斎場は今が混んでる真っ盛りなのだろうか。
嬉しい話じゃないが。

NG’s、深夜リハを敢行いたしました。いい歳をしたオヤジどもの徹夜のスタジオ練習である。
そして、そのまま会社へ出勤する私。バカモノである。
いま、ひと仕事終えたので、反省を込めて眠い目をこすりながらブログを書いている。

昨日の夜22時より、いつも使っている代々木のスタジオのミーティングルームを、その後24時より早朝5時までスタジオの「深夜パック」を予約した。
一利起@代々木ベースの大江氏とその前に待合せて軽く一杯。カウンターだけの小さな立ち飲み屋だ。
先に到着していた大江氏、すでに常連のオヤジさんと意気投合している。東村山の方で、当方ひばりヶ丘、清瀬の住人と地元話に花が咲く。
その後、常連さんも二人増え、狭い店はけっこういっぱい。あっという間に常連の一員になった気分。
みんなで3月22日にハーモニカ漫談の青空たのし師匠を浅草の東洋館(昔の浅草フランス座)に見に行く約束までしてしまった(???)。
小さな小さな立ち飲み屋だが、カウンター内の気さくなおかあさんが楽しい。我々を気に入ってくれたらしく、煮物や白菜漬をサービスしてもらい、先ほどのオヤジさんからトマトの差し入れまで。
で、定番の有名人のサインが数枚飾ってあるのだが、一枚だけ外人の色紙が。誰?
え!えっ!!ハービー・ハンコックじゃありませんかっ!
怖ろしや「立呑酒場・一利起(いちりき)」。
代々木駅下車。北参道へ向かって踏み切りを越えたすぐ右側。焼き鳥のボリュームは絶品。


早朝の代々木駅地獄の深夜特訓はNG’sのブログをご参照あれ。
あまり健康に良くないことはわかった。
しかし、勤め人がたっぷり時間をとってスタジオに入るとなると、この時間帯しかないのは事実。
早朝の代々木駅は、どう見ても徹夜組の酔っ払いしか見当たらなかった。

15
2月

腰痛になる。

   Posted by: Masazumi Ito   in Everyday I have the Blues (日記の項)

日曜の急な葬式に始まり、今日まで激務が続いた。
昨日のバレンタインデイも、夜中に日付が変わってから我が家のお手製チョコを淋しく冷蔵庫から出してむさぼる私であった。

もう50歳も手前になると、友人知人らとの会話は「いやぁ、最近血圧が高くてさあ」とか「糖尿の気があって食事制限だよ」とか「通風が痛い」等々体調不良の話題が多くなる。
私は若いときに暴飲暴食、不摂生な生活を謳歌していたにも関わらず、この歳までこれと言った病を患ったことがない。入院はおろか、骨折すらない。
10年ほど前、会社の繁忙期に強烈な胃痛に見舞われ、病院へ行くと「十二指腸潰瘍」と診断されたが、繁忙も収まりみんなで酒を飲みに行ったらピタッと治った(もちろん、薬も飲みましたが)。
頑丈な体に作ってくれた親に感謝である。
両親共に血圧が高いにも関わらず、私は極めて正常値。会社の健康診断でも「太り気味」以外は問題なし。
以前は肝機能の値が「要再検査」だったが最近はだいぶ落ち着いており、この体型にも関わらず「コレステロール値」や「中性脂肪」の値もさほど高くない。
再度、両親に感謝。それと、偏食を直していただいた妻にも感謝。

でも、さすがに年齢には勝てずに最近はあちこちにガタが来始めた。
2,3年前から首〜背骨が痛み出して、大嫌いな「病院」へ行ったら「脊髄ナントカ症」の疑い、と言われた。病院を5軒ほど変えたが原因不明。
レントゲンも問題ないらしい(ただ、骨の付き方が常人と逆だと言われたが)。
この痛みは左肘〜左の指先まで痺れとなり、睡眠の妨げとなった。
しかしながら、この痛みもたまに治まったりするものだから真剣に病院に通わない。これがいけないのだろうが。
あと、痛み慣れっていうのもあるかもしれない。

で、二日ほど前から腰のあたりが痛み出してきた。筋肉痛っぽいのですぐ治ると思った。
これが昨日の朝は痛みが増した。
昨夜はもっと痛くなった。
今朝は起き上がるのに10分かかった。や、やばい・・・。

今朝、うちの小学三年生と洗面所で並んで歯磨きしているときに
(私、腰をかがめる)
私「あ、痛てててて」
娘「どったの〜?」
私「いやぁ腰が痛くてね・・・」
娘「ビックリ腰!!」
私「そ、それを言うならギックリ腰でしょ」
娘「〇〇ちゃんのおかあさんもビックリ腰だって」
私「い、いやギックリ腰・・・」
娘「あのね、Wiiやってたら突然グキッてなったんだって」
私「お父さんのは突然じゃないからねぇ・・・」
娘「でねぇ、恥ずかしいから病院では『頑張ったらなっちゃった』って言ったんだって」
私「「(おいおい主語がないよ、何を頑張ったんだ?余計恥ずかしい話じゃないか?)」
娘「じゃあねぇ〜」

学校で「ウチのお父さん、頑張らないのにビックリ腰になったよぉ〜」と吹聴していないだろうか。

この腰痛をおして、明日は22時から朝5時までNG’sの深夜リハーサル&ミーティング。
そして恐ろしいことに、そのまま仕事へ直行になりそうだ ( ̄□ ̄|||)がーーん!

お清め
土曜日のリハの最中に、去年退職したTさんから連絡が入った。
「Oさんが亡くなった」と。

Oさんは会社の先輩でとっくの昔に定年で退かれたが、まだ70歳手前だった。
ちょっと変わった人で、しかも夏場に半袖が着れない、と言えばお分かりだろうが、背中には紋紋が入っており言葉遣いもカタギの口調ではない。
「男気」とか「義理人情」といった言葉が大好きで、カラオケで歌うのは当然「兄弟仁義」。
頭に血が上ってお客さんをぶん殴りブタ箱行きになったという武勇伝(?)もある人だ。

もう20年くらい前になるだろうか、同じ支部で組合の委員をやっていたYさんが酒の席で殴られた。
私のことを同じ穴のムジナくらいに思っていたのだろう、その後初めてOさんと酒宴で同席したとき想像通り喧嘩になった。
ただ私は殴られなかった。というか、最後は肩を組み二次会のカラオケスナックで歌い、酔っ払ったOさんを自宅まで送り届けて帰った。
それから年に1,2回一緒に飲むようになった。最後は私がおもりやく。
やってることは少々横暴だが、「思いやり」とか「約束ごと」にはとてもうるさい典型的な昔かたぎのおじさんだった。

ここ数年はすっかり疎遠になってしまっていたが、年に一度は必ず電話がかかってくる。
去年の夏ごろだったか、実は胃がんになって入院していたと電話があった。でも、もう飲めるようになったから大丈夫だとも言っていた。
入院してから手術するまでの経過を面白おかしく語ってくれたOさん。あの時の会話が最後になろうとは。

律儀なOさんだったが、年賀状は駄目だった。正月すぎに来たり、今年は来ないなぁなんて思ってると突然1月の中ごろに電話がかかってきたり。
今年は珍しく元旦に届いた。
しかも印刷ではなく、しっかり自筆で。

胃はほとんど摘出していたそうだったが、癌は直っていなかった。
葬祭場を出る前に、Oさんの顔を拝ませてもらった。
かつてはブイブイ言わせた厳つい表情もなく、とても穏やかな寝顔になっているのを見て思わず泣けてしまった。

お通夜も終わり、数人の先輩達とお清めに。
皆、平均年齢70歳前後。
「伊藤ちゃん、困ったことがあったら何でも相談してくれよ!」。酒も入っているせいか、みんな涙流しながら握手してくる。
こんな気さくな先輩達がいたあの時代は会社が楽しかった。