1 Profile

 


1959年5月15日
東京都世田谷区に生まれる。
この週のBillboardチャートNo.1は “Kansas City / Wilbert Harrison”であった。
1962年頃
「おかあさんといっしょ」の「ブーフーウー」に釘づけになる。
1963年頃
「エイトマン」が未消化の食べ物が入ったビニール袋を、お腹を開けて取り出す姿に衝撃を受ける。
1964年頃
「てなもんや三度笠」の白木みのるに衝撃を受ける。
”あったり前田のクラッカー!!”
1964年4月
東京都北多摩郡清瀬町(現東京都清瀬市)へ転居する。
力道山が死んだ4か月後、東京オリンピックの半年前のこと。
1997年まで、ここで過ごす。後に「清瀬の爆弾男」と呼ばれるとは・・・
命名者はA妻光良氏だったかO地曙裕氏だったか、記憶がない。
1967年頃
「ザ・タイガース」に衝撃を受ける。
親類のお姉さんが、よく立川のゴーゴークラブに観に行ってるのが羨ましかった時代。
1968~1969年頃
プロレス中継にクギ付け!「フリッツ・フォン・エリック」のアイアン・クローに衝撃を受ける。
月曜夜8時からは「NET日本プロレス中継」(NET=現テレビ朝日)
水曜夜7時からは「国際プロレス中継」(TBS)
金曜夜8時からは「日本プロレス中継」(日本テレビ)
土曜夜8時からは「プロレスアワー」(東京12チャンネル=現テレビ東京)
それ以外は「プロレス&ボクシング誌」「ゴング誌」「別冊ゴング誌」の読書でプロレス漬の毎日を過ごす。
1971年頃
「11PM」に凝る。
1972年頃
小学6年生~中学1年生。日本のフォークに影響を受け、はじめて生ギターを入手する。
URCやらエレックレコードやら買い漁る。が、Fのコードが押さえられない。
1972年暮頃
「成毛滋氏」の「日本人総リズム音痴論」に衝撃を受ける。
1973年頃
成毛氏の文中に出てくるCREAMの「Crossroads」を初めて聞き、ショックを受ける。
あっさりフォークを捨てて、ブリティッシュブルースロックの道へ。
以後3年間ほど、日本の音楽を毛嫌いする。
(日本の音楽を聴いているとリズム音痴になる、という説だった)
エレキ・ギターを購入する(ギャランの335モデル。チェリーレッド。値引き後、金¥28,000円也)
335モデルを選んだのは、まだまだブルースの影響ではなく、ウッドストックのアルヴィン・リー。それと、周りが皆レスポールとストラトだったから。要はアマノジャク。
1974年
「エリック・クラプトン」の初来日公演。生「Layla」に涙する。
この頃、初パーマをかける。
剃り込みはかなりの面積を占める。
こういう中学校でありました。。。
初バンド「BLUES POWER」結成。Cream のコピーをする。
中学卒業コンサート出演するも、演奏者の意図に反して何故か笑いを取る。
ベースのWくんのダミ声のボーカルが原因。
1975年3月
中学卒業を前にして観た初来日の「バディ・ガイ」。生の「First Time I Met The Blues」にぶっ飛ぶ。
7月、高校1年夏休みの初日に「オーティス・ラッシュ」初来日公演。生の「Gambler’s Blues」に再度ぶっ飛ぶ。
以降、BLUES〜BLACK MUSIC全般に浸り続ける人生。
初ブルース・バンド、「STONE CRAZY BLUES BAND」結成。メンバーを代えながら1979年まで続く。
1976年頃
授業を抜け出し、阿佐ヶ谷の「CADILLAC BABY」というブルース喫茶に通いはじめる。
マスターの「勅使河原靖」氏に、「バンドやるならコレを聞け!」と言われたのが「Chicago Boogie」と「Raw Unpoluted Soul / Willie Williams」。
1977年頃
大学受験を目前にした10月頃、都立清瀬高校3年7組でバンド結成。バンド名「BOBO & BRAZILS」。フォーク・ギターしか弾けないO江K一氏をベースに強制起用。
以後、音楽に目覚めた彼は大学受験を失敗し、人生設計が狂う。
1978年頃
一浪の大E公I氏を尻目に、亜細亜大学入学。音楽サークルに入部(1年先輩に「グレート義太夫」氏)するも体質にあわず、1年で脱会。
鈴木さん、いや義太夫さんは怖い先輩役を演じてました(笑)
大学に入ればブルースが出来ると思ったが、このサークルはかなりの体育会系で、校外のブルース好きと接点を持つ暇さえなかった。
サークル時代のバンド名は「SOUTHBOUND」。とりあえずサザンロックで暫くお茶を濁してみたが、長続きはしなかった。
「GIBSON ES-335」購入。御茶ノ水・下倉楽器にて店員の渡辺さんを拝み倒して230,000円也。

1979年頃
STONE CRAZY BLUES BAND」でライブ活動開始。初ライブは、上福岡「のらろば」。11月解散。
当時「永井隆とブルーへブン」にいた「吾妻光良」氏と知り合い、彼の後輩「小安田憲司」氏を紹介され新バンド結成に向ける。
何とか大学に入れた大江公一氏が作ったサークル「日本大学ミュージック&レジャー」に準会員として参加。ここでのバンドは、活動不定期、メンバー不定の「ショーチュー伊藤・ブルースバンド」。
とりあえず、酒の席には欠かせない悪名高い存在となる。
1980年頃
小安田氏の他に、東大の奇人「松井仁」氏、浜田山の鋼鉄の胃袋「岡地明」氏(後の「BO GUMBOS岡地曙裕)を加え「LITTLE BOY BLUE」結成。
「東京で一番でかい(音が)ブルースバンド」の異名を取り、都内ライブ・ハウスに多数出演するも、下北沢のナイトクラブ「STOMP」にて、「シーナ」氏に「ダッサイ、バンド名!」と罵られる。
次第に練習時間より飲んでいる時間のほうが多いバンドとなる。
河口湖にて、「早稲田大学ロッククライミング」サークルの合宿に参加。泥酔し従業員の便所に籠城しているところを、吾妻氏小出斉氏・小安田氏・岡地氏らに取り押さえられる。
前夜、消息不明となった「人見元基」氏とともに「河口湖の2大酔払い男」と呼ばれる。12年後、この時の一部始終は「組曲・いとうクンの唄」として結婚式二次会にて発表される。
日大「M&L」同様、早大の「ロッククライミング」にも準会員扱いで出入りするが、岡地氏の話では1回しか会費を払っていないという情報もある。
1981年頃
西荻窪「Tia Juana」のマスター、石田秀明氏と知り合う。「Cab Calloway」、「Louis Jordan」、「Slim Gaillord」等々、JIVEモノやJUMPモノを聴きまくり、JUJU MUSICやリンガラミュージックまで手を広げる。
今度は日大「M&L」の河口湖合宿に参加。後輩の頭、顔にマヨネーズ、ねり歯磨きを塗りたくったまま「急性アル中」にて病院送りにする。
少し反省する。
1982年頃
LITTLE BOY BLUE」解散。小安田氏はその後に兵庫へ帰省した(ちなみに彼は1年後に愛器ES345を抱え、東京へ家出して来る)。
同時期に解散した「CALDONIA」の神東正典氏、立松裕之氏、「CASEY JONES BLUES BAND」の佐藤浩人氏、どこのバンドにいたか忘れた早崎詩生(現スインギング・バッパーズ)氏と新バンド結成。
バンド名「LINDY HOP」。吉祥寺の「曼荼羅」をベースにライブ活動を始める。
1983年頃
吾妻光良氏がサックスを吹くバンド「CHICKEN SINK」結成。早稲田祭で全員パジャマ姿でデビューするも、ライブ数回で沈没。 吾妻光良、人生最大の汚点バンド。
1985年頃
LINDY HOP」自然消滅。
某運送会社に勤めはじめ、音楽界から足を洗う。
1992年
結婚式二次会パーティ、吉祥寺「のろ」にて開催。再発見され、久々の人前での演奏。
来ていただいたミュージシャンの皆様(敬称略50音順)吾妻光良石川二三夫岡地曙裕、神東正典、KYON小出斉、小町正明、小安田憲司、佐藤浩人、田村光太郎(故人)、戸田龍一、西川文二早崎詩生、堀江浩之助、牧裕町田謙介LEO、その他多数。
すっかり衰えたギターの腕に落ち込み、再度音楽界から離れる。
1997年12月
東京都保谷市(現西東京市)に転居する。
レコードとプロレスの雑誌が引越荷物の大半を占める。
1998年4月4日
アントニオ猪木氏引退に伴いプロレスから足を洗う宣言。
(数年後、誓いはあっさり破られる。。。)
1997年〜2006年
会社にて労組中央執行委員長を9年間務める。酒量衰えること知らず。夜の六本木、歌舞伎町、四谷三丁目、界隈で見受けられる。
2006年
何を思ったか、ギターを弾きだす。大江公一氏、太田浩一氏と再会しバンド勧誘される。
翌2007年、吉田尚人氏、斉藤智喜氏も加わり「THE NG’s」結成(結成当初名:Booker O & THE NG’s)。
リハビリに励む毎日。

そして2013年
LINDY HOP時代の盟友、佐藤浩人氏が7年間の名古屋単身赴任生活から東京に戻り、27年ぶりのブルースバンド結成。
その名も恥ずかしい セクスィー高村&R-50 BLUES PROJECT
佐藤浩人(vcl,gtr)、堀田俊一(vcl,gtr)、NICK澤野(vcl,hrp)、高村”セクスィー”和俊(bass)、マディフェイス大橋(drums)。

そしてそして、30年来の夢だったニューオリンズ・バンドも結成!
この名も恥ずかしい Berry伊藤 & DEW DROPPERS
若山光一郎(pf)、伊藤”Barry”雅之(baritone sax)、小町正明(bass)、岡地曙裕(drums)、LEO(vcl)。

今や、会社員は仮の姿状態・・・・・。



2015年
ライブ本数、年間20本を記録。
一部で「伊藤は生き急いでいるらしい」ともっぱらの噂。

2016年
夏の真っ盛り、人生初の入院~手術を経験、約1か月病院で涼しい夏を過ごす。
体重、63キロまで落ち、体力激減。退院4日目にライブ決行するも、チョーキングが全く上がらない・・・
それでもこの年のライブ本数は18本。

2017年
前年、あんな目に遭ったのに相変わらず365日アルコール三昧で復活!

2018年
暑い夏の日に、ひょんな飲み会から発生したセッションはバンドへ発展!
“OLD BLUES CIRCUS”
伊藤正純 (vcl, gtr) ex. LITTLE BOY BLUE
石川二三夫 (vcl, hrp) ex.JUKE
山室俊一 (vcl, gtr) ex.JUKE JOINT BLUES BAND
中村サトル (gtr) from ウシャコダ
若山光一郎 (pf) ex.ウシャコダ
森田恭一 (vcl, bass) ex.BREAKDOWN
大平幹久 (drm) ex.永井隆 & ブルーヘブン

私は最年少(笑)

2019年
5月15日、ついに還暦を迎えました。我ながら信じられないが本当だ。
1か月後に高円寺JIROKICHIで還暦ライブ開催!
OLD BLUES CICUSは順調にライブを重ね、9月には名古屋・京都の弾丸ツアーも敢行!
(Open House~拾得)
ちなみに会社は定年延長になったので、まだまだサラリーマン生活は続く・・・。
60歳から給与は8割だが、役職手当は付かないので実際は7割弱の給与だ(涙)
2020年
コロナがやってきた!ライブ本数激減。
そして4月1日、ついにタバコが居酒屋でも吸えなくなった!
コロナで居酒屋の休業、自粛が始まった中、実は喫煙者には試練が始まった。
本数は減ったが、ショートホープは旨い!
2022年5月
63歳を迎え、無事に定年退職(63歳定年制になっていた)。
そして63歳からは嘱託社員である。半年ずつの契約である。
急用は手取りで15万切るくらい。
でも働かなきゃ生きていけないし、呑めないし(笑)
良くある話だが、仕事量は現役時代と変わらずである。
せめて、好きな時に休みたい。この歳で有給休暇の失効は嫌だ!
黙っていると70歳まで契約は続くとか・・・・・(健康体であれば)。



My Blog : Two Steps From The Blues