新宿で飲む。小安田憲司氏と岡地曙裕氏と。最近、この面子でよく飲む。
うーむ、オレ交友関係乏しいのかな〜。
いや、楽しく飲めるというのは一番です。気兼ねなく、昔話から諸々の話題までいい感じで付き合ってもらえる友人は宝である。
宝を失って、初めて気づく試練も最近味わった。いや、味わっている。
人を敬い、自らも成長する。この歳になっても前向きに生きなきゃ楽しみもなくなる。
ちょっと愚痴ってしまったが・・・。
彼らは私にとって大きな存在である。元気にさせてくれる両名に感謝。
3名で居酒屋に入る前に、元気にさせてくれるもう一人の旧友と会った。
ファビュラス・ソウル・シンガー、LEOさん。
ノリは昔と変わらないねぇ。若いよ、うん。
でも話題は「物忘れ」。う〜〜〜ん・・・。
先週、京都のライブでお転婆したらしい。
捻挫したのも気づかずステージをこなし、打ち上げも大暴れ、ホテルに戻って「象の足になった右足」に気づき激痛に耐えつつ帰京したらしい。この日もまだ痛々しく足を引きずる。
喫茶店の階段を辛そうに降りる姿に感動した私は、思わずデジカメでパチリ!
「はっはっはっ!撮ってやったぞ!はっはっは!ブログネタだ!!」
「げっ!や、やられた・・・」
悪いことはできません。写真の出来は失敗でした。
象の足になったLEOさんの後ろ姿、撮り損ないました・・・。次回はよろしくお願いします。
欄外のプロフィール欄にもあるように、私はすっかりCD時代の波に乗り損なってしまっている。
音楽の世界から離れ始めた頃が、LP〜CDの過渡期。いまさらCDに買い換えようとは思わないが、未発表やら別テイクやらが2,3曲入っていたりすると悔し泣きしながら、たったそれだけの為に買い換えられるかいっ!となり、それがいろんな形でベスト盤やらになってくると、もうわけがわからない。
で、わけがわからないので買い控える、というケチな発想に落ち着いて未だにLPのお世話になっている。
そもそも、あのプラスティックケースが嫌だ。落とすとすぐ割れるし。
やっぱり30センチ四方の大画面(?)でアルバート・キングの鼻の穴を拝みながら “So Many Roads / Otis Rush” を聴くのが男っちゅもんよ(“Door To Door”)。
で2,3日前に Little Willie John をむせび泣きながら聴いていたら、やたら耳につくアンプのガリに辟易して即座にヤフオクで中古美品プリアンプをゲットした。
昨夜、葬式から帰宅すると早速到着していた。なんと素晴らしい出品者の方であろう。
何とか明日セッティングしたいものである。
そう言えば、レコード針換えたのはいつのことだったか。
うっ!記憶にないほど遠い昔のような気が・・・・・。
先々代社長のMさんのお通夜に行った。
斎場は横浜。と言っても横浜町田インターのそばで、交通の便はきわめて悪い。
17時半すぎに会社を出たが、長津田からタクシーで到着したのが、お通夜開始から30分ほど経った19時半頃。
聞くところによると、ここ2年ほど入院されていたらしい。
社長を退任してから、1年間代表権を持って会長を努められたが、表舞台に出る役目はすべて新社長に移譲され、会社へ来る日も日々減って最後退任するときはすっかり衰えた姿になっていた。
労使間でいろいろお世話になったこともあり、退任される前、最後のご挨拶に伺ったときはすっかり老人の眼になっていて、私が会長室に入っても一瞬「誰?」という顔をされていた。
ただ、遺影はバリバリの社長時代のものと思われる、かくしゃくとした写真だった。
この1ヶ月の間に、3回の葬式。こういう時でないと滅多に会えない人たちとの懐かしい再会の場であることは間違いない。
お清めの場で、Mさんの後任で昨年まで社長を務めたMI前社長や、大先輩である35年前の労組委員長Nさんらと旧交を温め、早々に退席した。
でも、もう今年の訃報は打ち止めにしてもらいたい。
岡地曙裕氏と軽く飲んだ。二人で飲むなんて、20数年ぶりじゃないかな。
かつてはよく飲んだ。いや、「よく」という表現は当らない。毎日のように飲んだ。
朝まで飲んで、彼の家でそのまま寝る。起きて飲む。あっという間に終電はなくなる。また、家で飲み続ける。そんなことを一週間も続け最後は「もうお前の顔なんか見たくないぞ!」と捨て台詞を吐いて別れるのだが、たまたまその日の夕方に新宿のレコード屋でばったり会ってしまい、その日からまた数日・・・・。なんてこともあった。二人で飲むと、音楽の話題はもちろんだが、プロレスの話、B級映画の話、下ネタ等々で止めどもない。
年月は経ち、私は江戸川区勤務、彼は江東区在住となり、下町あたりで飲む機会がなかったほうがおかしいくらいだ。
私の通勤経路の沿線まで来てもらえることになり、江東区の森下で落ちあった。
彼が事前にリサーチしていた「山利喜」に入る。私が来るだいぶ前から、店の前に並んでいてくれたようだ。
さすが行列ができる飲み屋。グルメ気分を満喫してしまった。
大正13年創業という、下町の老舗酒場である。
詳細は「山利喜」のホームページをご覧ください。近所にもう一店舗あるとは知らなかった。
我々は本館のほうにお邪魔した。でかい赤提灯にちょっと古めかしい昭和の雰囲気。
まずは生ビールでスタート。岡地氏は最初から日本酒。
最初に頼んだ刺身盛合わせは、まあこんな感じかな、という程度。
しかし、次に出てきた「やきとん」は旨い。塩で子袋、レバーとかしらはタレで。このタレが何十年も継ぎ足されてきたという秘法のタレらしく、深い味わいがある。
皿の隅に色の薄いからしが載っていて、岡地氏の「おぉ、酢味噌か」という言葉に騙され、思いっきり舐めたら死んだ。
日本酒も厳選されており、私は山形の「うきたむ」という酒を頼んだ。初めて飲む銘柄だが「なめらかでいて、切れのある軽快な味わい。香らず香る、軽いが軽すぎず」という謳い文句どおり。値段も安いし、これはちょっと要チェックだ。
そして、なんといっても「煮込み」!朝から6時間以上煮込むというから、牛シロはもうトロトロ状態。そして味の濃厚なこと。病みつきになります。
たまごを入れてもらったが、これもしっかり味の染み込んだゆでたまご。
隣で、赤ワインを飲んでいる人がいたが、やっと意味がわかった。「煮込み」というより「ビーフシチュー」に近い感覚かもしれない。ちなみに「ガーリックトースト」なんてメニューもあり、まさしくこれで皿に残った煮込みをすくい取るということらしい。どうやら、この煮込みには「赤ワイン」もブレンドされているようだ。
この次は事前にホームページでつまみ類をチェックしてから行きたいものだ。
それにしても、岡地さん相変わらず「飲み屋グルメ」だねぇ。また下町ツアー行きましょう。
お宝コーナーにサインを1点追加。
ブルースマンではありません。ソウルシンガーでもありません。
プロレスラーでもありません。
デルマーク・レコード(Delmark Rcords)のスティーブ・トマシェフスキーさん、でした。
ちなみに、腰痛は治っちゃいましたね。自然治癒。つおい!
リトル・ウイリー・ジョン(Little Willie John)のシングル盤4発でございます。
“Talk to me, talk to me”, “Fever”, “All aroud the world” etc・・・ウイリー・ジョンの名曲は数多いのに、日本ではどうも評価がいまいち。
ファンはかなりいると思われるのに、日本でのリイシューもいまひとつといった印象。
私が初めて聞いた頃も、再発盤の “Talk to me” (ジャケットが最高)と “Free at last” が辛うじて入手できた程度で、その後KING盤を集めたGUSTの2枚組(これはシングルジャケットにLP2枚を詰め込むツワモノだった)が出て、やっと食傷気味が解消された。
日本盤でやっと “Fever” が発売され(P-Vineでしたっけ?Vividでしたっけ?)、その頃に英チャーリーあたりもリイシューされ始めたような・・(曖昧な記憶)。
レコーディング自体もそう多くないはず。1960年代の中頃に殺人を犯し、その数年後にはハートアタックで獄中死するという、あの美声からはちょっと考えにくい喧嘩早い男だったようだ。
本当にすばらしいヴォーカリスト。もう少し素行が良く、長生きしていれば、相当な世界的ビッグ・アーティストになっていたに違いない。
天は二物を与えず、といったところか・・・。
ついでに言っておくと、バックを務めるミッキー・ベイカーのギターも、これまたたまんないっす!
それでは、リトル・ウイリー・ジョンのシングル盤4枚です。
King 5591 – Fever / Bo-Da-Ley Dino-Ley – 1962 (ストリングス入り)
King 5818 – So Lovely / Inside Information – 1963
King 5744 – My Baby’s In Love With Another Guy / Come On Sugar – 1963
King 5516 – Take My Love (I Want To Give It All To You) / Now You Know – 1961
なんと言っても “Inside Information” が素晴らしい。彼のバラードはどれも泣かせる出来ばかりだが、この曲がほとんどベスト盤に入らないのが何故なのかわからない。ぶつぶつぶつ・・・・・・。
ちなみにMOTOWNの “Switched on blues” に入っている、ウイリー・ジョンのお姉さんメイブル・ジョン(Mable John)の “I guess there’s no love” も大好きな曲です。
朝一で本社のH課長より訃報の連絡。
わが社の二代前の社長Mさんが亡くなられたとのこと。昭和4年生まれなので、80歳に手が届かなかった。
今年は正月から訃報続きで嫌になる。
Mさんは昭和63年から12年間社長の座にあった。
当初はタナボタ的に就任されたらしいが、私が直にお話出来るような立場になった時は、九州男児の無骨な「社長」らしい風格になっていた。
Mさんの社長時代はバブルの絶頂期から凋落するぎりぎり手前の時代。最後はテコ入れに奔走したが今よりはマシなころだった。
私は労働組合の委員長を9年やったが、最初の3年間の相手はMさんだった。
平成10年の暮れも押し迫った頃、私と書記長のHさんが本社に呼ばれた。相手は当時のM社長とナンバー2のE常務。
切り出しにくそうに話してきた内容は「従業員の賃金カットを容認してほしい」。
こんな重要な内容を、いくら組合の代表と言えど勝手に決めていい訳はない。しかしながら回答期限は即日。
結局、様々な条件を飲んでもらうことと引き換えに3ヶ月限定で容認することとなった。
その条件の中に、経営者側の役員報酬カット率の甘さを指摘させていただいた。その時のMさんの返答は次のようなものだった。
「いくらなら認めてもらえるのか。委員長の言った額に従うよ。」眼光鋭く鬼気迫るものがあり、思わず後ずさりしそうになった。それだけ、真剣に捉えていたのだろう。
後日、同席したH書記長が言った。「社長の給料を決めた委員長なんて後にも先にもないよ」。
その事件から遡る事、8ヶ月前。
渋い金額に終わった春闘が妥結した翌日、前期の業績がほぼ出来上がった。内々に経理から情報を掴んだのだが、予想とは裏腹にそこそこの数字が残った。
頭に来た私は、社長室に直訴に行った。団交員側の勉強不足もあったが、会社側の厳しい収支状況の説明を鵜呑みにして春闘は経営者に大幅譲歩した形で終わっていたからだ。
「会社の説明と全然違うじゃないですか。これだけの数字が残せるのなら、従業員へ分配すべきじゃなかったのですか」。
半年前の一時金団体交渉にて「プラスアルファなし」の妥結をしているので、私の討ち入りはいわば「反則」である。ただ正論を突きつけなければ腹の虫は収まらなかった。
その「反則」をMさんは受け入れた。夏の賞与に一律のプラスアルファを支給することを認めたのだ。私自身はもちろんのこと、同席したH書記長も驚いた。
やはり同席していたMさんの腹心であるE常務もびっくりしたらしい。後日、E常務から聞いたのだが、「あれは委員長の持って行き方がうまかったね。社長は九州男児だから、心意気の琴線に触れると思いもかけない決断が生まれるんだよ」。
私は特に作戦を練って行ったわけもなく、思うがままに訴えただけ。Mさん引退後に他の役員から「あの時は、Mさん勝手に決めて・・」と愚痴を聞かされたが、胸を張って自分の信念を信じて決断をしたMさんの強さを見習って欲しかった。
「社長らしい社長」それがMさんだった。
Mさんは退任後、公の場に姿を現すこともなく、体調もすぐれず入退院を繰り返していたような噂も聞いた。
Mさんが去った日を境に、我社は面白いくらいに業績を落として行く。これも何かの因果なのか。
お通夜は3日後。斎場は今が混んでる真っ盛りなのだろうか。
嬉しい話じゃないが。