朝一で本社のH課長より訃報の連絡。
わが社の二代前の社長Mさんが亡くなられたとのこと。昭和4年生まれなので、80歳に手が届かなかった。
今年は正月から訃報続きで嫌になる。
Mさんは昭和63年から12年間社長の座にあった。
当初はタナボタ的に就任されたらしいが、私が直にお話出来るような立場になった時は、九州男児の無骨な「社長」らしい風格になっていた。
Mさんの社長時代はバブルの絶頂期から凋落するぎりぎり手前の時代。最後はテコ入れに奔走したが今よりはマシなころだった。
私は労働組合の委員長を9年やったが、最初の3年間の相手はMさんだった。
平成10年の暮れも押し迫った頃、私と書記長のHさんが本社に呼ばれた。相手は当時のM社長とナンバー2のE常務。
切り出しにくそうに話してきた内容は「従業員の賃金カットを容認してほしい」。
こんな重要な内容を、いくら組合の代表と言えど勝手に決めていい訳はない。しかしながら回答期限は即日。
結局、様々な条件を飲んでもらうことと引き換えに3ヶ月限定で容認することとなった。
その条件の中に、経営者側の役員報酬カット率の甘さを指摘させていただいた。その時のMさんの返答は次のようなものだった。
「いくらなら認めてもらえるのか。委員長の言った額に従うよ。」眼光鋭く鬼気迫るものがあり、思わず後ずさりしそうになった。それだけ、真剣に捉えていたのだろう。
後日、同席したH書記長が言った。「社長の給料を決めた委員長なんて後にも先にもないよ」。
その事件から遡る事、8ヶ月前。
渋い金額に終わった春闘が妥結した翌日、前期の業績がほぼ出来上がった。内々に経理から情報を掴んだのだが、予想とは裏腹にそこそこの数字が残った。
頭に来た私は、社長室に直訴に行った。団交員側の勉強不足もあったが、会社側の厳しい収支状況の説明を鵜呑みにして春闘は経営者に大幅譲歩した形で終わっていたからだ。
「会社の説明と全然違うじゃないですか。これだけの数字が残せるのなら、従業員へ分配すべきじゃなかったのですか」。
半年前の一時金団体交渉にて「プラスアルファなし」の妥結をしているので、私の討ち入りはいわば「反則」である。ただ正論を突きつけなければ腹の虫は収まらなかった。
その「反則」をMさんは受け入れた。夏の賞与に一律のプラスアルファを支給することを認めたのだ。私自身はもちろんのこと、同席したH書記長も驚いた。
やはり同席していたMさんの腹心であるE常務もびっくりしたらしい。後日、E常務から聞いたのだが、「あれは委員長の持って行き方がうまかったね。社長は九州男児だから、心意気の琴線に触れると思いもかけない決断が生まれるんだよ」。
私は特に作戦を練って行ったわけもなく、思うがままに訴えただけ。Mさん引退後に他の役員から「あの時は、Mさん勝手に決めて・・」と愚痴を聞かされたが、胸を張って自分の信念を信じて決断をしたMさんの強さを見習って欲しかった。
「社長らしい社長」それがMさんだった。
Mさんは退任後、公の場に姿を現すこともなく、体調もすぐれず入退院を繰り返していたような噂も聞いた。
Mさんが去った日を境に、我社は面白いくらいに業績を落として行く。これも何かの因果なのか。
お通夜は3日後。斎場は今が混んでる真っ盛りなのだろうか。
嬉しい話じゃないが。