ちょっと長いのでフェイスブックではなく久々にブログで。
写真も無い、私の思い出の文章の羅列です。
バリバリ青春の頃の話。
私は18~19歳くらい。
鈴木さんは19~20歳くらい。
私、高校という狭い世界の中で、周りの誰も聞いてないブルースという音楽を一生懸命愛好してました。
友達とレコードを貸し借りなんて境遇にもないし、レコード買うには高校生の小遣いでは月1枚程度。
(一人だけ友人をブルース沼に引きずり込んだのですが、彼は大学入ったと同時にすっぱりと足を洗ってました)
ブルースバンドを組んだものの、「なんちゃって感」が強く・・・
大学入れば思いっきりブルースバンドが出来るぞ!と目をキラキラさせた1978年4月のこと。
その大学は音楽サークルが6つしか無く、一番ブルースに近そうなのが「世界民謡研究会」という、かなりダサい名前のクラブ。
他はジャズ専門の軽音部とか、吹奏楽部とか、ハワイアンとか・・・
そして4月のキャンパスは新入生勧誘の嵐。
そのクラブの2年の方々から優しく入会のお誘いを頂いたので入りました。
「うちは楽しいよ~!」って。
入部した1年生全員が揃ったところで事態は豹変。
あの優しい2年生は鬼のような厳しい先輩に。
鈴木さんもその中の一人。
太った温厚そうな鈴木さんは別人になっていました。
今や死語なんでしょうが
「4年神様・3年天皇・2年平民・1年奴隷」
という体育会と同じサークルでありました。
おまけに、バンドはそのサークルの中の人間としか組めないことが発覚。
当然、ブルース好きなんていない。
それどころか、楽器を触ったことも無いような超初心者も結構いた。
確か最初の数か月、ギタリスト1年生たちはアコースティックギターで延々と運指の練習の毎日。
おいおい、話が違うよ。
キャンパスの中で2年の先輩に出くわして挨拶しても、無視される日々。
何度も鈴木さんのことを「このブタ野郎!」って心の中で叫んだことか。
3年、4年生は優しいのね。
まぁ、2年生は教育係という役割が伝統なんだろう。
でも、人間なんでボロはでます。
たまに優しい鈴木さんが見え隠れするのだが、すぐに気を取り直す(笑)
でも、この演技力は後々の役者としての鈴木さんには良い勉強になったんだろうなぁ。
私は取り合えず、サザンロックのバンドを組んでお茶を濁していたが、そのうちもう我慢できなくなった。
約1年後、3月の春合宿を最後にやっと辞めることができた。
(辞めるのも一苦労、1年生全員を説き伏せないといけない)
その後、私は外でブルースバンドを組んで、ちょっとだけライブハウスに出たり出来るようになった。
辞めたサークルの文化祭も行かなかったなあ(教室でライブハウスをやる)。
まぁ、私は裏切り者だしね(笑)
というか、文化祭シーズンは知り合いのいるW大やN大に行きっぱなしだったし。
(というか普段から自分の学校より他校に行ってるほうが多かった)
数年後、まだ学生だったけど同級のベーシストであるHくんの計らいで、鈴木さんも含め数名で荻窪のスタジオに入った。
鈴木さんと演ったのは多分この時だけだと思う。
鈴木さんは元々フォーク少年で生ギター専門ながらも、大学に入って初めてドラマーになったと言っていた気がする。
初めて会ったあの時、鈴木さんは未だドラマー1年生だったのだ。
でも、上手かった。
右手のシンバルの叩き方が独特で、振りかぶってひねりを効かせたように叩く。
不思議だったが、本当に上手かった。
その荻窪のセッションは、2コードのインストやレゲエ調の曲だったり、楽しかった。
あ、もう私はクラブ員じゃないので、鈴木さんは優しい先輩に戻ってました。
そうだ、あの時の音源があるはずだ。
そのあと、水道橋のリハスタジオでばったり会ったのが最後。
それから暫くして、昼間テレビを見てたら(たしか「笑ってる場合ですよ」=「笑っていいとも」の前身番組)、
ビートたけしさんがバンドを率いていて、
「お!ハモニカはウィーピング・ハープ・セノオさんだ!」
と喜々としていたら、後ろの方で叩いてるドラマーの叩き方が見たことあるなぁ・・・
「あ!鈴木さんじゃないかぁ~!!」
ビックリしました。
その後、さらに気がつくと「グレート義太夫」という芸名で、消火器抱えて講談社のフライデー編集部を襲撃していました(笑)
そのくらいの時期に私は音楽業界から離れ、立派な?サラリーマンに。
暫くして、社内的にもそこそこの役割を担わせて貰ったので、音楽もテレビも離れてしまった。
(たまにプロレスは観てたが)
時は経ち、2006年くらいか?
IT系の部署へ異動となった。
常にパソコンの前に座っていたので、普通にネットサーフィンもするわけで、SNSなども始めるわけです。
いろんな人のブログも見るわけです。
ま、その後自分も始めるんですが(笑)
ひょんなことから鈴木さんと繋がった。
たぶんミクシーだった。
2008年2月の私のブログ。
実は吾妻光良さんがまだ現場の頃、「スーパージョッキー」の音声担当をしていたので鈴木さんとは顔なじみ。
だから、吾妻さんを通じてチラリとやり取りを出来たこともあった。
(「元気かい?って言ってたよ」とか、そんな程度だけど)
そういえば、吾妻さん「さらし首」って言われてたらしいな。
ミクシーが廃れてきて、その後はフェイスブック。
ほんと、たま~にコメントをやり取りする程度。
たけし軍団もあまり活動が少なくなって、ギター漫談家として活躍することが多くなってきた。
数年前に、浅草東洋館に観に行った。
終わってから会いに行こうかと思ったが、その後に自分のバンドリハがあったし、芸人業界は畑違いなので楽屋へ行くのもなんだよなあと思い、
「まぁ、また会えるだろうし」と思い会場を後にしたのを今になっては悔いている。
もう「また会えるさ」は似合わないお年頃になってきた。
でも、まさかこんなに早いとは思っても見なかったけど。
9月6日に友人が「この前、義太夫さん見かけたけど、調子悪そうだったよ」と話してくれた。
糖尿に加え、心筋梗塞で倒れたりもしていたので、最近のインスタとか見ても確かに元気とは言えない風体だった。
まだ動けるうちに、またドラム叩いてもらって一緒にやりたいんだよなぁ、と友人に話したその翌日に星になってしまうとは。
虫の報せか・・・
「グレート義太夫」は私にとってはテレビの中の芸人。
「鈴木正之」は私の若かりしときの先輩。
やっぱり、ついつい鈴木さん!と呼んでしまう。
良かったね、もう透析もしなくていいんですよ。
あの時はずいぶんいじめられたけど(笑)あれは役者への準備ということで。
そして、優しい鈴木さんを思いつつ献杯。
(古い記憶なので、間違えがあったらごめんなさい)



































































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