2022年10月15日の投稿

2022年10月1日の午前中のこと。
ふとYahooニュースに「アントニオ猪木、死去」の報せが。
嗚呼、ついに来てしまったのか。
ちょっと前、24時間テレビに出た時、舌は回らないがそこそこ元気に見えた。
だから、復活すると思っていた。
なのに・・・

遡れば小学生の頃、たぶん昭和42、3年くらいか。
たいしてプロレスが好きで一生懸命見ていたわけではない。
どちらかと言うと、グループサウンズを歌番組で見る方が好きだった。
が、何かの拍子に、原因は分からない。毎週金曜の夜8時はプロレスを見るようになっていた。

当時の日本プロレスは2m9cmのジャイアント馬場がエース。
そしてそれを支えるのが、いかにも石頭といった風情の「一本足頭突き」の大木金太郎。
力道山時代からの業師ではあるが、そろそろ40歳を超えてお腹ポッコリ体形の吉村道明。
となると、まだ20代でスマートなアントニオ猪木が一番カッコいいに決まっている。

その記憶の中で鮮明に憶えているのが、猪木さんの新必殺技の名称公募だ。
当時、猪木さんの代名詞と言えば「コブラツイスト」。
だったが、ジャイアント馬場なども使い始めたので新しい技が必要だったのかもしれない。
昭和43年だったと思う。
そして、その新必殺技は「卍固め」。
ヨーロッパでは「オクトパスホールド」と言われていたが、当然この技を伝授したのは、当時日本プロレスでゴッチ教室を開いていたカール・ゴッチ氏によるものであるのは言うまでもない。
小学3年生の私は「卍固め」というより「アントニオ・スペシャル」(卍固めの別称)という言い回しの方が好きだった。
この技、小学生の私にはちょっと複雑で興味深かった。
そういえば、当時プロレス雑誌で見た「パロ・スペシャル」(欧州のジャッキー・パロという軽量レスラーの得意技)ほどではないにしろ、プロレスの奥深さを悟ったものである。

テレビ中継は、当然金曜夜8時の日本テレビである。
TBSテレビの水曜夜7時からは国際プロレスもやっていた。
豊登・サンダー杉山組とか欧州帰りのストロング小林とか。

そしてもう一つ。
テレビ東京がまだ「東京12チャンネル」という名称だった頃。
土曜夜の8時からの「プロレス・アワー」だ。
おそらく1950年代から1960年代初期の頃のアメリカの試合だ。
当然、白黒。というか、まだカラーテレビも珍しい時代だった。
どちらかと言うと、私は金曜の夜より、こちらが好きだった。
ルー・テーズVSバーン・ガニア(まだ髪の毛があった!!)のNWA世界タイトル戦とか、バディ・ロジャース、アントニオ・ロッカ等々まだ見ぬ強豪オンパレード。
そして雑誌は「プロレス&ボクシング」、創刊したばかりの「ゴング」を隅から隅まで舐めるように読んだ。
話がどんどん反れるが、そんな中で大のお気に入りがフリッツ・フォン・エリックだった。
実はエリックの来日は1966年秋と1967年春で、私がファンになる直前だったため、このプロレスアワーで初めて遭遇、その馬力の凄さにKOされたのでありました。
(ちなみに、このテレビの頃はまだアイアンクローは使っていなかったようで、ストマッククローが決め技だった)

とりあえず、私は猪木とエリックを信奉する小学4年生になったわけです。
そして、またエリックの話になってしまうが、初のプロレス生観戦が1971年9月4日のこと、日本プロレスの「サマーミステリーシリーズ」である。

田園コロシアムでの馬場VSエリックのインターナショナル選手権試合がメイン。猪木はセミファイナルで大木金太郎とのコンビで、対する相手はザ・スポイラー(ドン・ジャーディン)、ブル・ラモス組。ミル・マスカラスも二度目の来日。
当初はまだ見ぬ強豪であるザ・シークの初来日だったのだが、急遽キャンセルで個人的に待望のフリッツ・フォン・エリックを生で拝めたのであります。ちなみに翌年の夏、同じ田園コロシアムでシークの初来日も観戦、坂口征二のUNタイトルに挑戦した試合です。日本プロレスが崩壊する半年前ですね。中学1年になったので清瀬から一人で観に行った強者(笑)

この年の暮れに猪木さんは日本プロレスを追放されます。その3か月後に「新日本プロレス」を旗揚げさせました。『旗揚げオープニングシリーズ』記念すべきこのシリーズですが、出来たばかりの新参団体で外人レスラーもカール・ゴッチ(最初の3戦で帰国)以外は、ほぼ無名。日本側は急遽参加した豊登以外は山本小鉄、柴田勝久、魁勝司、木戸修、藤波辰巳、そして入ったばかりの新人たち(後のグラン浜田、ミスターポーゴがいたけど!)という具合。1972年4月2日、中学の入学式を向かえる数日前に「所沢日吉町東映跡広場」という会場で観戦です!ここ、今のTOCOTOCO SQUARE(元ダイエー、元イオン)の並びに東映の映画館があってその閉鎖後広場(確か駐車場になっていた)でした。昔懐かしい屋外会場です。ここで間近の猪木さんを観て、なおかつ試合終了後にパンフレットにサインをして頂いた!!(宝物!)この瞬間にもう心はアントニオ猪木命!!

実はこの翌月のこと。
保谷の屋外会場(確か「石泉スポーツセンター」いったいどこだったんだ?野球場みたいな所だった)で日本プロレスを観戦。もちろん猪木さんは居ないわけだが、馬場+坂口の「東京タワーズ」を売り出す頃。外人部隊もジョニー・バレンタイン、ミル・マスカラス(この時、サイン貰った!)、ドン・キング・クロー、ミスター・レスリング(本家ではなくゴードン・ネルソンだったかな)、アール・メイナード、まだ若手だったボビー・ダンカン等々、新日の弱体外人勢とは大違い。
で、試合前の客席後方でリング上の練習風景を暇そうに葉巻をくわえながら見てる馬場さん発見!パンフレットもって「サインください!」、ところがけんもほろろに「あとあと!」と一括されてしまったのだ。
怒った中学1年生(笑)、この一件で私はアンチ馬場になるわけです。皆さんもファンは大切にしましょうね。

翌1973年になると崩壊間近の日本プロレスから坂口征二らが参入、3月から待望のテレビも付いた(NETテレビ=現テレビ朝日)。だが、まだまだ外人ルートのブッキングが弱かったところへ突然のタイガー・ジェット・シン!!
紫のチケットがオープニングシリーズ。カール・ゴッチは帰国していません(笑)でも豊登の名前が無いから、本当に急遽の参加だったのだな。
緑のチケットは1973年の10月。シンが再来日して新宿伊勢丹事件を起こした時だ!左下のチケットはシン初来日の時。これもシンの名前が入っていないので突発参加か。

 さて、私も中学生になり思春期で(笑)、ギターも弾き始めたし、パーマと剃り込みも入ったし(笑)等々で小学生の時ほどプロレス1番では無くなってきたのだが、テレビの中継は欠かさなかったし、やはりストロング小林戦、大木金太郎戦、ビル・ロビンソン戦は痺れたなぁ~!
高校2年の時のモハメッド・アリ戦は確か土曜だったので、学校のすぐそばの喫茶店に入りショートホープを燻らしながら生中継を観た記憶がある(土曜は午前中授業、速攻で帰れば家で観れたのに何故喫茶店??)。

二十歳を過ぎた頃にはタイガーマスクが登場して、大新日本プロレスブーム!
この頃はバンドが一生懸命で1番がBLUES、2番がプロレスになっていたけど(汗)、ミュージシャン仲間に意外とプロレスファンが多かった。
一度、渋谷でバンドリハが終わった後、どうしてもワールドプロレスリングが観たくてメンバーたちといかがわしい個室喫茶のような店に入ったことも(笑)。
ドラマーの某O地氏とは、夜中にお互い東スポを片手に深夜の長電話の毎日。
タッグリーグ戦の星取予想を深夜まで激論するなどしてました(笑)
その頃はビデオデッキを持っていなかったのだが、ゆくゆくは購入するつもりだったので、ベースの某K東氏に頼み込んで第1回IWGPの決勝戦を録画して貰った。生まれて初めてビデオテープを買ったのであります。
前述したO地氏とは、随分と新日の会場に観戦しに行きました。
国技館で一緒にブロディ追いかけられたときは本当に怖かった(笑)
あ、この猪木vsブロディの前に、後楽園ホールで公開スパーリングというのも二人で行ったなぁ。
相当、暇人(笑)
音楽活動を離れた後も、よく一緒に観に行きました。最初のドーム(猪木さんがチョチョシビリにKOされた時)やら最初の1.4(猪木vs馳)も行ってるなぁ。

話は前後しますが、大ブームの後にタイガーマスクの引退、長州軍の脱退、クーデター事件等々のピンチが訪れる新日ですが、巻き返しも凄い。そしてこの頃からプロレス団体が増え始め、そろそろ訳が分からなくなってきた。。。

猪木さんは政治家の道へ進み、イラクの人質解放やら北朝鮮での平和の祭典開催など、普通の政治家には考えも及ばない行動を突き進みます。
やっぱり猪木はスゲーや!
本当にそう思いましたねぇ。
そして1998年4月4日の東京ドーム引退試合。
当時、私は会社の労働組合で中央執行委員長という立場にありました。
その日はちょうど春闘団交の打ち合わせ日(土曜でした)。
通常は昼頃集まって昼食をみんなで昼食をとってから打ち合わせに入りますが、その日は職権乱用(笑)、午前中打ち合わせで昼食とって解散!だって猪木さんの引退試合じゃあないですか!!

そしてこの日を最後に、私はプロレスを断ちました。

プロレスは子供のころから好きだったけど、団体が増えすぎてストーリーを追って行かないと焦点が見えない。以前ほど頻繁に見なくなったこともあり、だんだん流れが見えなくなってきたのが大きいが、やっぱり私は熱狂的な「猪木信者」だったことに気づき、仕事もかなり忙しかったこともありプロレスにサヨナラしたのでした。

まぁ、別にプロレス嫌いになったわけではないので、たまたま中継を観たりはするのだけど、如何せん専門誌も東スポも読まなくなったので、興味は薄れていく。
後年、ザ・グレート・カブキさんの店を紹介してくれた友人たちと、また1.4ドーム大会に行きだしたりしたけど、浦島太郎状態。

そんな中、猪木さんはマイペースで次々と突き進んでいく。
凄いな。
猪木さんも
猪木さんの元を2回も出て行った長州力氏、いまや「会長!会長!!」と絶賛。
UWFに出され(?)袂を分かち、その後の猪木批判を続けた前田日明氏もいまや猪木さんの功績を称える。
結局、みんなアントニオ猪木の掌の上で転がされていたのか?
それだけ、でかい存在なんだな。

  最後に見た「生猪木」さん。
2019年、ゼロワン奉納プロレスの ”1,2,3,ダァーッ!!”

 

退場時の猪木さんを追いかけて至近距離まで。

猪木信者の面目躍如(笑)

この頃、だいぶ体力的に衰えてきていることは目に見えて分かったが、この後、2020年頃に難病である「心アミロイドーシス」であることを吐露。
でも、絶対に完治して戻ってくることを皆が思っていたはず。
だから、本当に残念で仕方がない。
猪木さんでも寿命があるんだな、と思い知らされた。

でもやっぱり、アントニオ猪木は神だ!
俺は死ぬまで「猪木信者」を続けるぞ!!

ちなみに
「元気があれば、何でもできる!」
これは、私の座右の銘にしています。